日台関係の過去と現在

台湾

藤井:こんにちは。藤井厳喜です。今日の台湾ボイスは謝長廷(しゃちょうてい)台湾大使をお招きして、私と林建良さんの2人でインタビューするという構成で進めていきます。大使、お忙しいなか来ていただき、どうもありがとうございます。

謝:いえいえ。今日はお招きいただき、本当にうれしく思います。

藤井:大使は日本の全都道府県を回られたんじゃないですか。

謝:そうね。だいたい3回ぐらい回りました。

藤井:日本3周されていらっしゃるんですか。

謝:そう。

藤井:そうですか。大使は日本語がお上手ですが、京都大学に留学されていたとお聞きしています。

謝:そうです。

藤井:大使は子どもの頃、または来日する以前、日本にはどんなイメージを持たれていましたか。

謝:子どもの頃は日本にいいイメージを持っていました。私はちょうど日本政府が引き揚げたばかりの終戦直後の生まれです。その後、中国大陸で共産党に破れた国民党政府が台湾にやってきました。当時の台湾の民間の人たちは日本政府と国民党政府をくらべ、日本政府のほうが遥かにいいと感じていたと思います。そして当時の台湾には日本文化の影響がまだ残されていました。

藤井:はい。

謝:『平凡』や『明星』という雑誌がありました。台湾人は日本が大好きです。

藤井:映画スターが出ているような芸能界の雑誌ですよね。

謝:はい。私が中学生の頃、兄さんや親戚の上の人たちは『平凡』や『明星』を読んでいました。

藤井:あー。

謝:ああいう雑誌を借りてきます。雑誌の後ろにはたくさんの判子が押されていました。

藤井:そうか。台湾にも貸本屋さんがあったわけですか。

謝:はい。

林:大使は台北の最も文化の香りが強く残っているところの出身です。台湾語ではドアドゥディアン【3:08】といいます。

謝:ドアドゥディアンね。

林:しかもドアドゥディアンは1947年の228事件の発生地でもあります。

藤井:なるほど。

林:大使の実家に近いところなんですか。

謝:私は、まさにそこで生まれました。

藤井:なるほど。ということは、そこら辺は日本文化の香りが色濃く、日本統治時代のいろんなものが残っていたということですか。

謝:日本風にいいますと、あそこは城下町になります。

藤井:あー。城下町なんですか。

林:城下町です。

謝:シャンライ以外は城下町です。だから台湾らしさがいまだに色濃く残っています。

藤井:台湾らしさ。なるほど。だけど、日本が引き揚げた後の国民党統治下では日本語を使ってはいけない時代だったと聞いています。

謝:そうですね。日本の歌は禁止です。日本の映画も制限されました。

藤井:日本の映画も制限されたんですか。

謝:映画はありましたよ。。

林:『宮本武蔵』。

謝:『宮本武蔵』というチャンバラ映画が大好きだった。

藤井:そういうのが人気だったんですか。

謝:チャンバラ映画は人気がありました。

藤井:しかし制限されていたんですよね。

謝:1年のあいだに見られるのは四つか五つぐらいだったと記憶しています。

藤井:あー。

謝:政府が反日ですから、公に日本語で話すのは禁止されていました。そういう環境で私は育ちました。しかし民間の人たちは親日です。日本精神とか、良いイメージの言葉が残されていました。

藤井:そうすると、大使は最初どうやって日本語を勉強されていたんですか。

謝:決して上手ではないものの、私が小さい頃は上の人たちが日本語を結構しゃべっていました。そういうのを聞く機会があって、自然な流れで大学時代には第2外国語に日本語を選びました。

藤井:なるほど。

林:ちなみに大使は日本の国費留学生でした。

藤井:すごく優秀な人じゃないと国費留学生には選ばれませんよね。

林:そして大使は国費留学生の最後の期になります。なぜなら大使が留学した後すぐに日本と台湾が断行したからです。

藤井:あー。最後の期か。

謝:私は1972年4月に来日しました。そして9月に日本と台湾が断交しています。ちょうど断交の年です。

藤井:なるほど。最後の国費留学生ですか。

林:はい。大使は最後の国費留学生です。

藤井:そうですか。断交した9月以降、日本の国費から支給されたんですか。

謝:あのときは本当に心配しました。将来のや生活に不安がありました。結局は日本台湾交流協会が奨学金を支給してくれました。しかし条件面では国費ほど出なかったことを覚えています。

藤井:国費ほど出なかったんですか。それはご苦労をおかけしました。

謝:苦労しました。私はその後、アルバイトで働き始めました。

藤井:なるほど。京都は古い文化の中心地です。京都大学在学中にはおもしろい経験もされたのではないでしょうか。東京大学に留学するより、むしろ京都大学に行かれたほうが良かったのではないかと私なんかは思ってしまいます。ただし京都大学は左翼活動が活発なところという一面もありますが。

謝:そうですね。当時は赤軍が闊歩していました。

藤井:赤軍とか左翼がすごく盛んでした。

謝:ヘルメットをかぶっているような光景をよく見かけました。毎日それを見ていましたが、私には何だか分からなかった。今日は赤い色、次の日は黒色というように。

藤井:青とか、黒とか。

謝:半分が黒、半分が赤という人たちもいました。

藤井:そういう光景をご覧になっていたということですか。

謝:はい。

藤井:私には京都大学に留学した韓国の学生と交流がありまして、彼は「京都大学に来て、すごく損をした」と話していました。彼はまったく左翼じゃなかったんですが、韓国に帰ってから「京都大学は左翼活動の中心地だから、おまえも洗脳されているだろう」と厳しい取り調べを受けたそうです。大使はそんなことはなかったですか。

謝:京都大学への留学は、私の人生に大きな影響を与えました。なぜなら京都大学伝統の在野精神や反骨精神を学んだことが私の政界入りのきっかけになったと考えているからです。

藤井:そうですか。

謝:それから私は台湾から京都に初めて到着したとき、本当に驚きました。当時の台湾は戒厳令が敷かれていて、自由がなかったからです。

藤井:ずっと戒厳令が続いていましたよね。

謝:京都に着いたときに自由な雰囲気を感じ、そして「台湾も自由な社会になってほしい」と強く思いました。

林:実は大使は台湾大学法学部の3年生のときに弁護士試験に合格して、弁護士の資格を持っていました。弁護士はやはり出世街道です。一方で当時の台湾では基本的に政治に触るなという雰囲気がありました。台湾人が「政界に入りたい」と言えば、間違いなく親からの大反対を受けているでしょう。

藤井:政治の道は苦労しますからね。

林:はい。余程の反骨精神の持ち主でなければ、政界に入ることはなかったと思います。

藤井:なるほど。京都大学でそういう反骨精神の影響を受けたということでしょうか。

謝:そうですね。京都のそういう在野精神に大いに影響されたのは確かです。ちなみに台湾では司法官(裁判官)と弁護士の試験は別々です。台湾に戻ったときに先輩弁護士に「もし弁護士になりたければ、裁判官を経由しないほうがいい。裁判官になると在野精神を失ってしまい、人権や正義など、そういう精神を保つことができなくなる」とのアドバイスを受け、裁判官の訓練に行かなかったという経緯があります。

藤井:なるほど。

林:大使は当時、誰もが触れたくないような政治犯の弁護を担当しています。最も有名なのが美麗島事件(びれいとうじけん)です。

藤井:美麗島事件ですか。

林:蒋介石政権下で美麗島事件は起きました。活動家のなかには実際に死刑を求刑された人がいます。勇気がなければ、彼らを弁護することなどできないでしょう。要するに自分の将来を棒に振るかもしれない決断だったわけですが、大使は美麗島事件を起こした政治犯の弁護団に入りました。そういう姿勢こそ、大使が非常に尊敬される部分だと思います。

藤井:そうですよね。自分の弁護士人生を賭けてでも弁護しなければならないと思われた。下手すれば自分も牢屋に入れられてしまうかもしれないというような時代だったのではないでしょうか。

謝:家内と両親から大反対されました。

藤井:そうでしょうね。

謝:弁護士の前途が明るいという話がありましたが、当時と今はまったく違います。当時の弁護士試験の合格者は毎年6人か7人しかいなかったからです。

藤井:そうですか。

謝:今は1000人が合格します。あのときは非常に少ない。だから弁護士の業務や仕事は優遇されていました。しかし私には正義のほうが大事だった。私は根っからの法律人ですから、自分の細胞のなかに正義の血液が流れていると思っています。

藤井:なるほど。

謝:私は「美麗島事件の弁護を引き受けることを拒否したら、弁護士になる資格はない」と家内を説得しました。しかしあのときは家内とのあいだで「絶対に政界には入らないで」という約束があったんです。

林:わははは。

藤井:奥さんには「この弁護は引き受けるけど、その代わり政界には入らない」と約束したわけですか。

謝:「逮捕されるのは政界に入ったり、スピーチしたりする人たち。弁護をやることだけなら絶対に安全だ。私は政界には絶対に入らない」と家内に約束しました。

藤井:なるほど。後で奥さんを裏切ったということですね。

林:わははは。

謝:家内には「申し訳ございません」と謝りました。

藤井:我々もそうですが、奥さんには謝るしかないですね。

謝:そうですね。

藤井:当時の台湾では本当に勇気が必要なことだったと思います。私も歴史を見ていて、弁護団のなかに大使の名前が並んでいたのは知っていました。当時は自分が牢屋に入るぐらいの覚悟を持たなければ、決して弁護することはできなかっただろうと思います。今とは社会情勢がまったく違いますからね。

謝:そうですね。

藤井:それは本当に尊敬に値します。それから弁護士の数もそれだけ少なかったということなんですね。

謝:そうですね。

藤井:エリート中のエリートだ。

林:そうです。今の人が政治の世界に入るのとはまったく意味合いが違います。当時の台湾では「絶対に政治に触れるな」という雰囲気がありました。両親だけではなく、学校の先生からも「政治の世界には絶対に手を突っ込むな。政治は台湾人が触れるものではない」と教わっていたのではないかと思います。一般的な台湾人からすれば、弁護士の地位を捨てて、政界に入るというようなことは考えられないことです。

藤井:そうか。その時代、そういった問題に勇気を持って弁護を引き受けられた。みんなが尊敬するわけです。

謝:いえいえ。

林:さらに大使は民進党の結党に最初から参加しています。実は民主進歩党という党名の名付け親は大使なんですよ。

藤井:大使が名付け親なんですか。

謝:はい。

藤井:民主進歩党、いい名前を付けられましたね。

謝:あのときは「民主党にしたらどうか」と提案する人がいました。しかし私の考えでは民主だけではなく、やはり方向性を示したかった。私が留学していた京都には左翼の環境がありました。だから進歩。そういうことで、民主進歩党と名付けたのが由来です。

藤井:民進党はすっかり定着して、今や与党の立派な政党になりました。

林: 民進党は1986年に結党しましたが、そのときも大使たちは逮捕される覚悟で臨んでいたのではないかと思います。

謝:政党の結成日、私は遺言書を書きました。

藤井:そうでしたか。

謝:それまでに党を結党しようとした人たちのほとんどが逮捕されていたからです。

藤井:当時は政党を結成すること自体が違法行為でしたよね。

謝:そうです。

林:違法だったんですよ。

謝:まだ戒厳令が敷かれていたからです。

藤井:そうか。それだけの覚悟を持って、おやりになったわけだ。

謝:そうですね。

藤井:しかし遺書を書かれたというのは大変なことでしたね。

謝:今から振り返ってみると、当時の決断は良かったと思っています。

藤井:そういう勇気を持たれた方がいたからこそ、今の民進党があり、今の台湾があるということでしょう。

林:そうですね。大使たちが勇気を見せなければ、おそらく台湾の民主化は何年も遅れていたのではないかと思います。

藤井:そうですね。

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